二人のオフコース
<オフ・コース>として小田和正、鈴木康博のデュオ・グループが本格デビューしたのは1972年。
私は当時、小学3年生。残念ながらこの時代のオフ・コースをリアルタイムに語ることはできないのだが、さまざまな視点とエピソードから “二人のオフコース”を紐解いていきたい。
小田と鈴木は高校時代からグループを組み、イベントやコンテストに頻繁に出場。1969年、<ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト>全国グランプリ大会で第2位になり、その実力評価は決定的なものとなる。
1970年4月、3人組の<ジ・オフ・コース>としてシングル「群衆の中で」でデビュー。その直後、メンバーの地主道夫が脱退。他のメンバーを加えてシングル2枚をリリースするが、小田、鈴木以外のメンバーは定着しなかった。そして1972年、<オフ・コース>として、シングル「僕の贈りもの」をリリース。ここから“二人のオフコース”がスタートする。ここまでの流れはオフコースファンなら、ある程度、周知の事実ではあるが、二人が1972年から7年もの間、二人で活動できた理由を少し検証してみたい。
1点目は、二人の声質が非常に似ている点だ(シングル「僕の贈りもの」のメロディ・パートは二人の完全ユニゾン!モノラル定位のために一人のヴォーカルとして聴こえる)。
小田の女性的な(いや、女性ヴォーカル以上に女性らしい)ミドルヴォイス系ハイトーンと鈴木が随所に聴かせるチェストヴォイスから垣間見れる男らしいヴォーカルが絶妙のハーモニー・ニュアンスを生んでいる。このニュアンスとダイナミズムを武器に“二人のオフコース”は徐々に女性を中心にファンを獲得していく。
例1) 「さわやかな朝をむかえるために」 (僕の贈りもの)収録
例2) 「貼り忘れた写真」 (僕の贈りもの)収録
オフ・コース『僕の贈りもの』
また、セカンド・アルバム以降は、二人が各楽曲ごとにリードヴォーカルを取る形となったことで、常にライバルであり、唯一のハーモニー・パートナーであり続けた。ヴォーカルの質感は今でいうミドルヴォイス系のスタイルだが、他のシンガーが入る余地がない完全なハーモニー・ワークを維持し続けてきた。
一方で、このヴォーカルスタイルは“二人のオフコース”の「諸刃の剣」であり、のちに5人となったオフコースにとって大きな問題となっていくのである。この点については別の章で詳しくお話ししたい。
2点目は、ほとんどの楽曲においてアメリカン・ミュージックが素地となっている点である。ピーター・ポール&マリー、カーペンターズ、アメリカ、サイモン&ガーファンクル、キャロル・キングなどのアメリカン・フォークのイメージが全曲にわたり紐づいている。シンプルなコード展開ではなく、ダイアトニックとテンション・コードを多用し、当時の日本のフォークソングとは一線を画す楽曲づくりに徹している点も大きなポイントであり、時代の先を行っていたグループだったと言える。そしてアメリカン・ミュージックに影響を受けながらの活動は、5人のオフコースとなってからも継続されていく。
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眠れぬ夜
最初に私が「二人のオフコース」の楽曲を知ったのは西城秀樹のシングル曲だった。1980年12月リリースの「眠れぬ夜」。当時人気のTV番組<ザ・ベストテン>では最高3位というヒット曲。私がこの曲がオフコースの曲だということを知ったのは少し後になるのだが。
すでに「YOUNG MAN(YMCA)」で人気絶頂だった西城秀樹が、アコースティックなイメージのこの曲を爽やかに歌っていたのは、ある意味、違和感のある光景だった。
小田は、このカバーがリリースされる前、オフコースのコンサートのMCでこう話したという。
“西城秀樹君が「眠れぬ夜」をシングルにすることになって…”(客席から、エェーッという非難の声!)“そういう、ファンの声も考慮に入れて僕が決断を下しました。で、出来上がったものを聴いたら、僕に遠慮してか、えらく地味になってました。ま、楽しみにしててください!”
オフコースは当時、東芝EMIのレーベル<EXPRESS>所属だったのだが、西城秀樹が所属するRCAに楽曲提供した東芝EMIのこの戦略は大きく当たる。この曲によって、「さよなら」でブレイクしていたオフコースの知名度をさらに押し上げることになるのだ。
この戦略の裏には、当時のプロデューサー、内藤敏史の存在がある。内藤はアルバム『ワインの匂い』から『FAIRWAY』
までを担当するのだが、デビュー・アルバム『僕の贈りもの』
、セカンド・アルバム『この道をゆけば ⁄ オフ・コース・ラウンド2』
』の2作品に関しては、実力あるスタジオ・ミュージシャン(村上ポンタ、高橋幸宏、小原礼など錚々たる面々)が起用されていた。しかし、内藤は制作的に小田、鈴木、二人のポリシーがあまり感じられないと、不満に感じていた。そこで武藤は「もっと充分に時間をとって彼らのやりたいように作れる場を与える、それも大切なことだと思う」と考え、サード・アルバムの制作には二人が満足できる十分な時間をレコーディングにかけることにした。結果、1975年7月から始まったレコーディングは延べ500時間を超え、当時サディスティック・ミカ・バンドが持っていたレコーディング時間の最長記録を更新。そしてサード・アルバム『ワインの匂い』
は完成する。細かい音の一つひとつにまで時間がかけられ、今までとはあまりに違うやり方に「そんなことしていいのか」と、小田・鈴木は何度も思ったという。※1
特に「眠れぬ夜」についてのエピソードは興味深い。前2作のアルバムの流れから、この曲は最初バラード調の曲だった。この流れに対して、武藤氏は「眠れぬ夜」
を、誰でも楽しめる、シンプルな曲づくりに変更することを提案。そこで、ポップでライトなイントロアレンジを行い、曲調を一新。当初、小田はこのアレンジに否定的だったらしいが、その後、二人とも納得してこのアレンジを受け入れた。そして「眠れぬ夜」
はオフコースのライヴで欠かせない1曲へと育っていったのである。※2
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※1 参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/ワインの匂い
※2 参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/眠れぬ夜#オフコースによるオリジナル・シングル
(次回に続く)
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